今、できること
■はじめに —とある学生さんの話—
他の方の進路の一助になることを思って、いろいろなことを書こうと思って始めたものの、結局自分の進路のことに手一杯になって、何かと文章が書けていません。しかし、先日思わぬところで、他の人の役に立つことができたかなと思うことがあります。その出来事を紹介するとともに、今、私が考えることを書いてみます。
縁あって私が知り合った大学2年生の学生さんは、今年の10月から外国に留学に行く予定でした。その学生さんは、学びたいことを定めており、目標を持って海外で学びを深めようとしています。
また、「大学2年」という価値の高さとその時間の重さを実感している人で、かけがえのない経験を得ようと志している学生さんです。「学生にしかできない経験」というと聞こえがよく、往々にしてさまざまな想像ができますが、この学生さんの言う「学生にしかできない経験」というのは、広く一般的に言われる「学生にしかできない経験」と違うと思ったのです。端的に言えば、ただ浮ついているだけではないな、と思いました。
■学生にしかできない経験
学生時代には、遊びもよし、お金を稼ぐこともよし、そう思っています。全く否定しません ——大学合格までは一切遊ぶことが許されることはなかった、経済的理由により隙間時間を縫うようにバイトする必要がある—— いろいろあると思います。
どんな背景があるかわからない限り、少なくとも「学生にしかできない経験」と言って、他の人から見たら浮ついている行動をしていても、その人の時間の使い方を非難するようなことはできません。
しかし、すでに18や20歳から働いている方からは「遊ぶことができて気楽だな」「そんなにバイトするくらいだったら大学行かなきゃいいのに」という意見もあるかもしれません。
正直なところ、ごもっともで、もしかしたら私も「何のために大学に行っているのだろう?」と思う学生さんに出会うこともあるかもしれません。「大学は人生の夏休み」「就職予備校」と揶揄されるのも仕方のない現状だと思います。しかし、その夏休みや予備校も「学生にしかできない経験」であり、すなわち「(大)学生に与えられた特権」なのだと思えている人も少なくないのでしょう(うまいことを言うつもりはありませんが、夏のあとは秋冬と寒い季節が続きますよ...... あんまり夏を謳歌したくないですね)。
私は、修士2年生になりますが、学部生(大学1-4年生)時代がどうだったかと言われると、比較的勉強に勤しんでいたと思います。サークル活動やアルバイトに時間を費やす(or しすぎる)こともなく、大学1-4年生の間はひたすら勉強していたと自負します。
なぜこう言うことを言うのかというと…… やっぱり時間の使い方がもったいないと感じる人の話をよく聞くようになったと思うからです。よく言う「大学生は遊んでいるだけ」と思うことが多くなったのです。
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交友関係について —サークル活動の意義!?—
私は部活もしていましたし、アルバイトもずっとしています。友人関係にも恵まれ、先に社会に出た友人ばかりですが、変わらず今でも交友があり、彼らに精神的に支えてもらえる場面もあります。
つまり、「ひたすら勉強をしていた」と私が言うわりには、それほど寂しくない、ということを主張しています。
ひたすら勉強をしていたと言うわりには、私はそれほど優秀ではありません。また、数十人数百人と友達(=知り合い?)がいるかと聞かれたら首を縦に振ることはありません。
ただ、負け惜しみでもなく、そんなに友人はいらないでしょう……
「いる/いらない」の話の前に、それだけ友人がいたら、友人に2段階以上の順位付けをしなくてはならない気がしてなりません。いよいよ疲れると思います。
なんというか、友人こそ「量より質」だと思います。
進路とかそれ以前に、目先の人間関係に悩んでいる方がいたら参考にしてください。そんなに無理して友人の数は必要ありません。「友人」に限らず、なんなら「大学」に限らず、真面目にやっていればそのひたむきな姿勢を評価してくれる人が必ずいるはずです。
いえ、一切否定や反論するつもりもありませんし、どこかで(サークル活動とかを)羨ましいと思っている私だから正直に書くことができると思っていますし、どこかで自分を正当化したいだけかもしれませんが、やっぱり学生の本分は勉学だと思います。
「人間関係も大切だよ〜」とか「大学に来たら友達たくさん作らなきゃ」みたいなことを言うことは一向に構いません。ただ、それこそ事情がある人たちを考慮すべきでしょう。奨学金を借りねば通学できない学生に「お前は学生生活、損してる」みたいな言い方をしている人はいないでしょうか?
そう言う人だけは気をつけたいですね(そういう人には寄らない/そういことは言わない)。楽しい学生生活の象徴として大学が描かれるのは結構ですが、変な幻想を次の世代に残さないこと、その幻想で得た「自分の(価値観に基づいた)幸せ」を他人に押し付けないこと、それくらいは意識したいです。 -
お金の稼ぎ方 —本末転倒を避ける—
私は、うまくやりくりして、安い学費で学士を取りました。胸を張って大学生と肩を並べることはできませんが、彼らに負けないようにと上述したように懸命に勉強してきたつもりです。
聞こえはいいことを言いますが、「学費が安かったからこそ、アルバイトの時間を減らすことができ、勉強することができました」。
したがって、「アルバイトばかりしないで、学費を安くする方法があるから、それを活用して勉強する時間を増やせ」と言いたいわけではありません。
そうではなく「学費を支弁すること」に囚われて、いつの間にか「お金を稼ぐこと」が目的となり、「何のために学費を払って学校に行くのか」を見失っては意味がない、ことを主張したいです。
大学生くらいになると、働き方によっては良く稼ぐことができると思います。大学によるでしょうが、学費を払うには十分かもしれません。家庭の事情まで全てを把握することは私には難しいですが、たくさん稼いで自ら大学に通うことを親孝行と呼ぶのは少し難しい話です。
一応、経済的に困窮している学生には支援をする助成制度は存在します。貸与型の奨学金なら、ほとんどの学生が使うことができると思います。優れた成績を残せばさらに優れた助成を受ける可能性が高まります。
それを「一か八か」と呼ぶなら、時間を切り詰めてまで、大学の講義の出欠や受講に制限を出してまで、アルバイトをすることこそ「一か八か」のギャンブルでしかありません。
そもそも大学に来ている意味? とか第三者に言われることもあるかもしれませんが、将来ちゃんとした企業に就職するためと考えている人も少なくないと思います。それはとても立派なことだと私は思っています。でも、その企業に就職するためには、一応大学での授業に対して真面目に成績を残しておいた方が良いです。
サークル活動もアルバイトも決して否定しません。むしろ私は今でも羨ましいとさえ思います。とっても素敵なことですし、学生時代にしかできないことだと思います。俗に言う「コミュ力」も磨けるでしょうから、得することは多いでしょう。
ただ、せっかく受験勉強をして入った大学。「入ったところ」をゴールにして、「あとは遊ぶ」「社会人になる前の最後の娯楽」みたいな過ごし方をするのは、なかなか興味深いです。揶揄されても仕方ありません。
また、いずれにしても「やりすぎ」は注意だと思います。お金があるなら遊んでもいいかもしれませんが、その時間の2割くらいは勉強してもいいと思います。お金がないならバイトすべきでしょうが、そもそも高校から大学に入る前に試算しておきたいところです。体を酷使してまで学位を取りたいのなら、その前に自分の心身のためにあらゆる手段を探すべきです。酷使をしない方法を探す努力をしたいところです。
■計画が上手くいかないことを「悔しい」と思う
さて、冒頭の学生さんの話に戻ります。
実は、その学生さんの留学の計画は、感染症の影響で、頓挫しました。
その無念な気持ちは私にも伝わりました。
その学生さんのことをよく知っているわけではないですが、目標を抱き、準備を重ねて、家族に相談をしながら、友人と別れて外国に暮らすことに覚悟をしながらも、自分の成長を期待できる舞台にワクワクしていたと思います。
大学2年生ですから、大学院に行かないのでしたら、来年には就職活動も始まるでしょう。そこに焦点を当てると、その「ネタ作り」のためにも今年中には自分を高める何かをしておきたかったでしょう。それこそ、サークル活動やアルバイトのような、普通の大学生が経験しているようなこととは異なった経験を得たかったのかもしれません。
しかし、こればかりは、この学生さんのせいでも、誰のせいでもありません。此度の感染症の蔓延は、自然災害と同じようなものだと私は思っています。なお、今回のコロナウイルスや異常気象などは人間に依拠しているものと考えることもできますが、人類が築いた文明の成り立ちの一部を誤りとするところから考える気がして、少しスケールが大きすぎるので、地震のように対処不能なものだと解釈しています(地震もいつか対処できるようになるといいですね……)。
実際のところ、このように此度のコロナウイルスの影響で、さまざまな計画が頓挫した学生・生徒さんは多いのではないでしょうか?
本当に悔しさを察します。
それらの計画はみなさんにとってかけがえのない経験に昇華するものだったと思います。
ここで、「あなた一人じゃないから落ち込まないで」と言いたいのではありません。強いて言うなら、ここは分岐点なのではないでしょうか?
少し無理のあるポジティブシンキングですが、「偉大な計画を潰される」という経験をしているのは、今計画をしていた皆さんだけです。企業では、「失敗や挫折から何を学ぶか/どう立ち直るか」を採用選考などで重要視している場合もあります。
たとえば、私には想像できない世界ですが、大学生のみなさんがもし今このコロナ禍で高3だったら、
・どのように大学受験に臨もうとしますか?
・どのように勉強をしたほうが良いと「今なら」思うでしょうか?
「学校に行けない分、自宅で復習しまくる」「一度解いたことのある問題集の2週目に入る」など、「今なら」好機だと思えるくらい、他人事だと考えることはできませんか?
しばらくいじけたり落ち込んだりしてもいいので、その感情と付き合いながらこれを糧にすることができたら、いずれこの岐路はみなさんにとってかけがえのない経験になると思います。
これを糧にできるかできないか(=分岐点)が、後に響く気がするのです。
■おわりに —運命に耐える—
世の中がこういう局面を迎えて、1つの言葉を思い出します。
東日本大震災直後に、気仙沼市の中学校の卒業式で答辞を読んだ方の一文です。
物珍しく観る/聴くものではないため詳しく紹介しませんが、調べるとわかります。
苦境にあっても、天を恨まず、運命に耐え、 助け合って生きていく事が、
これからのわたくしたちの使命です。
続く感染症の脅威によって、多くの思いが叶わないものになっているかもしれません。それでも今は耐えて、他の人に助けてもらいながら、そしてちょっと余裕が出てきたら他の人を助けながら、頑張っていきたいな、と私は考えます。